AI 時代、ビジョンとチームこそが社会を動かす
「権力と人事権」の関係を扱った問題は、度々、大学入試の歴史問題で問われる内容です。高校生がそのロジックを自然と理解できるほど、日本社会において“人事=権力”という認識は深く浸透している。それは恐ろしいほどに当然視されている。
だが、人事権こそが組織や社会を前進させる原動力なのか――。
■ 「人事がすべて」だった日本
1980〜90年代、バブル景気に湧いた日本企業では、人事部出身者が出世するという構造が顕著だった。
人材配置を掌握することが会社運営の中心だと広く信じられ、人事権の強い者こそ、企業で最大の影響力を持つとされた。
政治の世界でも、人事権の威力は象徴的だ。
とりわけ菅義偉元首相は、官僚の人事権を首相官邸に集中させたことで、「官僚機構を掌握した強い総理」と評された。
以前の日本では、官僚は政府から一定距離を保ち、専門性に基づく政策形成を担う“独立エリート”として存在していた。しかし、官邸が人事権を握ったことで、官僚は政府方針に沿うか否かで処遇が決まる構造が生まれた。
人事権による支配は、「唯一無二の組織」を背景に成立する。
日本社会は依然として労働移動が限定的で、「会社」「官僚機構」といった組織に所属し続けることが前提である。その組織でのポジション=その人の人生と捉える人も未だに多く、ゆえに、その中のポジションを決める人事権は、絶対的な力となる。
■ 人事権が無効化する社会がある
だが、世界を見渡すと、全く異なる構造が進んでいる。
とくに米国のAI産業では、人事権はほとんど威力を持たない。
方向性が合わなければ、優秀な人材はすぐに転職する。
能力のある者は、チームごと移籍し、あるいは独立して新会社を立ち上げる。
つまり、組織は“唯一の居場所”ではなく、単なる選択肢の一つにすぎない。
人的流動性と専門性が高い社会では、人事権に依存した統治は成立しない。辞めてしまえば、支配関係は消える。
権力の源泉は、「どこに配置するか」ではなく、**「どんなビジョンを掲げ、どんな未来を描けるか」**に移っている。
■ ビジョンがなければ、人事権は組織を腐らせる
本来、人事はビジョンを実現するための手段である。
だが、ビジョンなきトップが人事権のみを振り回す組織は、
内向きとなり、保身と忖度が蔓延し、硬直化していく。
人材は成長ではなく処遇を気にし、
組織は競争力を失う。
**ビジョンの欠如は、人事権を腐敗装置へと変える。**人を惹きつけるのは地位の約束ではなく、
「この未来を一緒につくりたい」という確かな理念だ。
■ 「組織という器」が主役だった時代の終わり
従来の日本は**「組織 → 人」**という順序が当たり前だった。
まず会社があり、人がそこに配属される。
組織にいることがキャリアの前提条件だった。
しかし、AI時代の米国は逆だ。**「ビジョン → チーム → 必要なら組織」**という順序で動く。
先に実現したい未来があり、
その世界観に共鳴した人々が集まり、
事業が進むなかで初めて組織が形成される。
器が先にあるのではない。**目的が先にある。**組織に所属することは目的ではなく、
ビジョンを実現するための手段にすぎない。
■ 日本も「流動性のある社会」へ変革すべき
人的流動性が低い社会では、人事権が絶対的な力となり、
組織の硬直化を招く。
その典型が、官僚制と大企業だ。
だが、これからの社会に必要なのは、
人を“囲い込む”仕組みではなく、人が自由に挑戦し、チームを組み、離散・再編できる環境だ。
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転職・独立が自然
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チーム単位の移動・創業が容易
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プロジェクト型で働く
こうした社会が実現すれば、
人事権の魔力は弱まり、ビジョンを掲げられる者だけが人を惹きつける。
それは、健全な競争であり、
社会の新陳代謝を加速させる。
■ 結語
人事は確かに権力だ。
しかし、それは流動性や専門性が低い社会にのみ通用する力に過ぎない。
人材が自由に動ける社会では、
人事権は無効化する。
そして、ビジョンを持たないトップは、
人を失い、組織を腐らせる。
これから社会を動かすのは、
組織ではない。ビジョンで集まったチームである。
人は組織に従うのではなく、
**ビジョンに従う。**日本が再び前進するために――
私たちは、
「組織が人を縛る社会」から
「ビジョンが人を動かす社会」へと、
大きく舵を切らなければならない。