DXってなんだか理解している?

DXってなんだか理解している?

― 定義をずらした瞬間に、議論は壊れる

近年、日本では「DX(デジタルトランスフォーメーション)」という言葉が氾濫している。

企業の中期経営計画、行政資料、補助金の説明文。

そこには必ずと言っていいほどDXという単語が登場する。

しかし、その使われ方を冷静に見ていくと、強い違和感を覚える。それは、本当にDXなのか。---

海外で語られてきたDXの例

DXという言葉が現実の意味を持って語られてきた文脈は、はっきりしている。

代表的な例が、Skype、Uber、Airbnbだ。

Skype

Skypeは「電話をデジタル化した」サービスではない。

距離と通信コストという前提そのものを消し去った。

「国際電話は高い」という問題は、解決されたのではなく消滅した

その裏にあったのが、当時は主に違法コンテンツ共有の文脈で語られていたP2P技術である。Skypeはこの技術を、通信キャリアや巨大インフラの代替として再解釈した。

ユーザー自身のPCとネット回線をノードとし、中央集権的な交換設備を持たずに通話品質を成立させる。それは「通信インフラは事業者が保有するもの」という前提を、技術的に無効化する試みだった。

結果としてSkypeは、通信キャリアのネットワークを回避し、国境と距離、そして料金体系を意味のないものにした。

これは通話体験の改善ではない。通信産業の前提条件そのものを、ユーザー側に引き剥がしたDXだった。


Uber

※ここで言うUberは、食品配達サービスの「Uber Eats」ではない。Uber Eatsを運営しているUber社の本体事業である、配車サービスのUberの話である。

Uberは、タクシー業務をデジタル化したサービスではない。

配車を便利にしたアプリでもない。

Uberがやったことは、「移動サービスは、免許を持つ事業者が車両と営業所を保有して提供するもの」という前提そのものを無効化したことである。

一般の個人が、自家用車とスマートフォンを使い、

空いている時間に移動サービスを提供する。

利用者は、アプリ上で即座に車を呼び、

料金・到着時間・評価を事前に把握できる。

これは業務効率の改善ではない。移動サービスの供給構造を、事業者中心から個人分散型へと書き換えた試みだった。

その結果、世界各地で激しい反発が起きた。

タクシー業界からの抗議、訴訟、規制当局との全面対立。

多くの国や都市で、Uberは違法と判断されるか、事業停止に追い込まれた。

それでもUberが止められなかったのは、

「便利だったから」ではない。**既存のタクシー産業が成立していた前提条件そのものが、

ユーザー視点では不要だと露呈してしまったから**である。

Uberは、移動という体験を改善したのではない。移動産業の成立条件を、ユーザー側から破壊したDXだった。


Airbnb

Airbnbはホテル予約を便利にしたサービスではない。

「宿泊=事業者が施設を所有する」という前提を壊した。

見知らぬ他人の家に泊まるという発想は、当初は強く否定された。

それでも止められなかったのは、構造そのものを書き換えてしまったからだ。


これらに共通する点は、きわめて明確だ。

しかもそれは、既存産業との協調や段階的改善によってではなかった。通信キャリア、タクシー会社、ホテル業界といった既存の産業構造そのものを置き換えることを前提にした、クレイジーな発想だった。

彼らが追求したのは、業界の理解でも制度との整合でもない。徹底的に、ユーザーのメリットだけである。

その結果として、既存産業が成立していた前提条件そのものが崩れた。

これがDXの原型である。

DXとは、業界の延長線上で起きる改革ではない。**ユーザー価値を極限まで押し出した結果、

産業構造が後から崩れる現象**なのだ。


その後、日本で使われ始めた「DX」

一方、日本でDXという言葉が広まった過程は、まったく異なる。

これらは確かに価値がある。

しかし、それはデジタル化や業務改善であって、DXではない。

にもかかわらず、現在の日本では、**「デジタルを使えばDX」**という空気が当たり前のように存在している。


言葉の定義が、完全にずれている

海外で語られてきたDXと、日本で使われているDX。

両者は、同じ言葉でありながら、指しているものがまったく違う。

これは解釈の違いではない。概念そのものが別物だ。


今回の批判の本質

ここでの批判は、「言葉遣いが気に入らない」という話ではない。

問題は、定義をずらしたことで、本来あるべき議論ができなくなっている点にある。

DXを業務改善の別名として使ってしまうと、

といった、重い問いが最初から消えてしまう。

さらに、**「それはDXではないのでは?」という指摘に対し、「DXの定義は人それぞれ」**という逃げ道が生まれる。

定義を曖昧にすることは、議論を封じる行為だ。


なぜ、これは深刻な問題なのか

本質的な理由は単純だ。DXを本来の意味で実装したグローバル企業が、日本市場に本格参入した瞬間、産業ごと持っていかれるからである。

彼らは、

を武器に入ってくる。

日本企業が「業務改善DX」を積み重ねている間に、

彼らはそもそも競争の土俵を変えてしまう

現在、日本市場がかろうじて守られているのは、

規制、業界慣行、制度運用といった、いわゆる「岩盤規制」による部分が大きい。

しかし、それは防波堤であって、恒久的な解決策ではない。

テクノロジーと資本は、

時間をかけて必ずその隙間を見つける。

事実、これまでも多くの産業でそうだった。

問題は、日本が今、二つの選択肢の間に立たされていることだ。

この差は、短期的には見えにくい。

だが一度決定的な差がつけば、後から埋めることは極めて困難になる

DXとは、便利さの話ではない。

これは、日本が今後も産業を持ち続けられるかどうかの分岐点である。


結論 ― 日本はいま、どちらの時代を生きるのか

DXという言葉の定義を曖昧にしたままでは、この問いに正面から向き合うことはできない。

日本はいま、静かだが決定的な分岐点に立っている。

一つの道は、

規制と慣習で市場を囲い込み、外からの変化を防ぎながら、

20世紀に築いた産業と制度を保存する道だ。

製造業、流通、金融、行政。

それらを「日本らしさ」として温存し、

結果として日本を高度に整備された20世紀のテーマパークとして世界に開く。観光立国という言葉が現実味を帯びるのは、この延長線上にある。

もう一つの道は、

ソフトウェアとサービスを武器に、

産業構造そのものを書き換える側に回る道である。

業務改善ではなく前提破壊を選び、

国内市場に最適化するのではなく、最初から世界を取りに行く。

通信、移動、金融、医療、教育。

そこから生まれるDX企業が、再び日本を21世紀の電子立国として位置づける。

どちらも、自然に選ばれる道ではない。

前者は安心だが、縮小が前提となる。

後者は痛みを伴うが、成長の可能性を持つ。

重要なのは、

この選択は「いつか」の話ではないということだ。

グローバルなDX企業は、すでに完成した構造と資本を携えてやってくる。

一度決定的な差が生まれれば、

後から同じ位置に戻ることは極めて困難になる。

DXは流行語ではない。

便利さの話でもない。国として、どの時代を生きるかという意思決定の言葉である。

言葉の定義を守らなければ、

その意思決定すらできなくなる。

DXという言葉を、軽く使うべきではない理由は、そこにある。

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