なぜ著名な投資家は「歴史」を学び、歴史を書き続けるのか

なぜ著名な投資家は「歴史」を学び、歴史を書き続けるのか

金融市場における短期的な価格変動は、政治的事件、スキャンダル、自然災害、あるいは市場参加者の感情といった偶発的要因に強く左右される。一方で、10年単位の長期的な資産価格や産業構造の変化は、歴史的に繰り返されてきた構造要因――信用循環、技術革新、人口動態、覇権国家の興亡――によって高い説明力を持つ。本稿では、ジム・ロジャーズ、レイ・ダリオをはじめとする著名投資家が、なぜ歴史を重視し、歴史書を書くに至ったのかを検討し、数理金融よりも歴史認識が長期投資において合理的である理由を論じる。


1. 短期の株価変動は「予測不可能」である

短期的な株価の変動を正確に予測することは、原理的に困難である。

その理由は明白だ。

これらは確率分布に素直に従わず、事前にモデル化することができない。

短期の株価予測は、しばしば「情報を持つ者が勝つゲーム」のように語られるが、実際にはサイコロを振る行為に近い

ブラック・ショールズモデルをはじめとする数理金融は、この不確実性を「分散」や「ボラティリティ」によって扱おうとする。しかしそれは、市場が連続的かつ安定的であるという前提の上に成立している。

現実の市場は、連続ではなく、非線形で、しばしば断絶的である。


2. 一方で、長期トレンドは驚くほど予測可能である

短期の未来は読めない。しかし、10年単位の未来はどうか。

これらは「予測」ではなく、歴史的事実の反復である。

未来が完全に同じ形で再現されることはない。しかし、構造は驚くほど似た形で現れる。

この「構造の反復」を扱う学問こそが歴史である。


3. なぜ著名投資家は歴史を学び、歴史を書くのか

3.1 ジム・ロジャーズ ― 国家と資源の歴史

ジム・ロジャーズは歴史を専攻し、投資判断においても一貫して国家単位・資源・人口動態を重視してきた。彼の投資哲学は、個別企業の短期的成長ではなく、数十年単位での国の浮沈に焦点を当てる。

新興国が台頭する理由、成熟国が停滞する理由は、過去の歴史を見ればほぼ説明がつく。ロジャーズにとって投資とは、「どの国がこれから歴史の上り坂にあるのか」を見極める行為である。


3.2 レイ・ダリオ ― 世界秩序の循環モデル

レイ・ダリオは『The Changing World Order』において、オランダ、イギリス、アメリカという覇権国家の興亡を分析し、国家は例外なく以下のプロセスを辿ると論じた。

  1. 生産性向上と成長

  2. 信用拡張と金融化

  3. 債務過多と通貨価値の低下

  4. 社会的分断と政治不安

  5. 覇権交代

これは経済学というより、体系化された歴史学に近い。

ダリオが行っているのは未来予測ではなく、「現在が歴史のどの局面にあるか」を特定する作業である。


3.3 その他の投資家に共通する視点

ハワード・マークス、ウォーレン・バフェット、ジョージ・ソロスといった投資家も、表現こそ異なるが共通点を持つ。

彼らは未来を当てようとはしない。歴史の再来を警戒しているだけである。


4. 個別技術・個別企業はなぜ予測できないのか

BeOSが勝つのか、Appleが勝つのか。

SGIがコンシューマー市場に進出するのか。

Amazonが「コンピューターの会社」になるのか。

これらは当時、極めて予測が難しかった。

理由は単純で、個別企業の成否は、

といった非再現的要素に依存するからだ。

しかし一方で、

これらは当時でも十分に予測可能だった。

なぜなら、これは技術革新が社会構造を変えるという歴史的パターンだからである。


5. 10年スパンで未来を見るために、過去を見る

短期的な未来は予測できない。

しかし、10年スパンで見れば、大きなトレンドは驚くほど外れない。

これらはすべて、過去に何度も起きている。

未来を知るために必要なのは、新しい数式ではない。過去を正しく理解することである。


6. ブラック・ショールズより歴史を学ぶ合理性

ブラック・ショールズモデルは、金融工学として優れた成果である。しかしそれは、あくまで「平常時」の市場を扱う道具だ。

一方、長期投資において本当に重要なのは、

これらは数式ではなく、歴史的比較によってしか判断できない


結論

著名な投資家が歴史を学び、歴史を書き続ける理由は明確である。**市場の本質は、数字ではなく人類史だからだ。**短期の予測精度をわずかに高めるよりも、

時代の転換点で致命的な誤りを犯さないことの方が、

長期投資では圧倒的に重要である。

その意味で、

ブラック・ショールズを学ぶより、

歴史を学ぶことが、

普通の人にとって最も合理的な長期投資戦略である。

という結論は、理論的にも、歴史的にも、極めて妥当である。

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