「何の役に立つの?」が世界を変える

「何の役に立つの?」が世界を変える

「その研究、何の役に立つのですか?」

研究者なら、一度は聞かれたことのある質問かもしれません。

でも歴史を振り返ると、本当に世界を変えた技術ほど、研究が始まった時点では「何の役に立つか」が誰にも分かっていませんでした。

ここでは3つの物語を、仕組み身近なたとえを交えながら見ていきます。

1. 240年眠っていた数学が、インターネットを守るようになった

始まりは、ただの「数のパズル」

17世紀、フランスの数学者フェルマーが、素数(2や3や5のように、1とその数自身でしか割り切れない数)について、ある面白い性質を見つけました。18世紀には、天才オイラーがそれをさらに一般化し、「オイラーの定理」として証明します。

これは完全な純粋数学でした。コンピュータも、インターネットも、暗号の必要性すらない時代です。研究者たちはただ「数とはどういうものか」を知りたかっただけでした。

そこから240年後、ある「困りごと」が解決される

時は1970年代。インターネットの前身が生まれ、ある問題が浮かび上がります。

**離れた相手と安全に通信するには、暗号が必要。 でも、暗号を解く「鍵」を、どうやって相手に渡せばいいのか?**鍵そのものを送れば、途中で盗み見られてしまう。会ったこともない相手と、どうやって秘密を共有するのか。これは長らく解けない難問でした。

1977年、Rivest・Shamir・Adlemanの3人が、オイラーの定理を使ってこれを鮮やかに解決します。RSA暗号の誕生です。

イメージは「開いた南京錠を配る」

RSA暗号の発想は、こんなたとえで考えると分かりやすくなります。

  1. あなたは「開いた状態の南京錠」を大量に作り、誰でも持っていけるように街中にばらまく(=公開鍵)。

  2. あなたに秘密を送りたい人は、その南京錠で箱をパチンと閉じて送る。

3.**南京錠は「閉める」ことはできても、「開ける」ことはできない。**鍵を持っているのはあなただけ(=秘密鍵)。

こうすれば、事前に打ち合わせていない相手とも、安全にやり取りができます。

この「閉めるのは簡単、開けるのは至難」という性質を数学で実現したのが、まさにオイラーの定理でした。

**巨大な素数2つを掛け算するのは一瞬。 でも、その答えから元の素数2つを言い当てるのは、最新のコンピュータでも事実上不可能。**この一方通行こそが、「開いた南京錠」の正体です。

今ではHTTPS(鍵マークのついたサイト)、ネットバンキング、ネットショッピング、電子署名——インターネットの安全の多くが、この18世紀の数学の上に成り立っています。誰一人予想しなかった、240年越しの応用でした。

2.「なんだ、この配列?」から始まったゲノム編集

意味不明なDNAの発見

1987年、日本。大阪大学の石野良純らが、大腸菌のDNAを調べていて、奇妙なものを見つけます。同じDNA配列が何度も繰り返され、その合間に、意味不明なDNA断片が挟まっている。「これは一体何なんだ?」——論文には報告したものの、役割は誰にも分かりませんでした。普通なら、そのまま忘れられてもおかしくない発見です。

世界中が少しずつ調べ続けた結果

それでも研究者たちが調べ続けると、驚くことが分かってきます。この配列は大腸菌だけでなく、多くの細菌に存在していました。そして間に挟まったDNAは、かつてその細菌を攻撃したウイルスのDNAだったのです。

つまり細菌は、「こいつに前に攻撃された」という記録を、自分のDNAに刻んでいたのでした。

イメージは「指名手配写真」と「分子のハサミ」

仕組みはこうです。

  1. 細菌は、襲ってきたウイルスのDNAの一部を切り取って保存する(=指名手配写真をアルバムに貼る)。

  2. 同じウイルスが再び侵入すると、その写真をもとに犯人を見つけ出す。

  3. そして「Cas9」というタンパク質が、分子のハサミとなって、ウイルスのDNAをその場でちょん切る。

細菌にも、ちゃんと免疫システムがあったのです。

そして2012年、革命が起きる

ここで研究者は気づきます。

指名手配写真を自分たちで好きに差し替えれば、 ハサミ(Cas9)に「ここを切れ」と、狙った場所を指示できるのでは?これがCRISPR-Cas9。狙ったDNAだけを自在に書き換える「ゲノム編集」の誕生です。

最初はただの「意味不明なDNA配列」だったものが、数十年後には、遺伝病の治療や品種改良に使われる、生命科学最大級の技術になりました。

3.「そんな現象はおかしい」と言われた物理が、次世代技術になった

アインシュタインが嫌った「気味の悪い」現象

1935年、アインシュタインは量子力学のある予測に、強い違和感を持ちました。量子もつれ——二つの粒子が、どれだけ遠く離れても、不思議なほどぴったり連動した結果を示す、という現象です。

アインシュタインはこれを「遠くにいるのに作用しあう、気味の悪い現象(spooky action at a distance)」と呼び、「自然界でこんなことが起きるはずがない」と考えました。

イメージは「手袋」……いや、それが違った

ここが、この話の一番面白いところです。まず、こんなたとえを考えてみてください。

一組の手袋を、左右バラバラに箱へ入れ、地球の反対側どうしに送る。 片方の箱を開けて「左手用」だと分かれば、もう片方は開けなくても「右手用」だと一瞬で分かる

これは別に不思議ではありません。送り出した時点で、すでに左右が決まっていただけだからです。アインシュタインは「量子もつれもこれと同じで、本当は最初から答えが決まっているはずだ」と主張しました。

長いあいだ、これは決着のつかない、哲学のような議論でした。

1964年、議論が「実験できる問題」に変わる

物理学者ジョン・ベルが突破口を開きます。

「もしアインシュタインが正しく、答えが最初から決まっているなら、 実験結果はこの数式の範囲に収まるはずだ」これがベルの不等式。哲学的な口論が、ついに測定できる科学の問題に変わった瞬間です。

1982年、実験が下した判決

アラン・アスペらが実際に実験すると——**ベルの不等式は破られました。**つまり、現実は「手袋」とは違っていたのです。答えは送り出す前から決まっていたわけではないのに、それでも二つの粒子は完璧に連動していた。自然は、古い物理学では説明できない振る舞いを、本当にしていたのです。

そして2022年、この一連の研究はノーベル物理学賞を受賞しました。

かつて「ただの哲学的な議論」と思われていた量子もつれは、いまや

-量子暗号(盗み見ると状態が乱れるので、盗聴を必ず検知できる)

-量子通信-量子コンピュータという次世代技術の土台になっています。

共通しているのは「好奇心」だった

3つ並べてみると、不思議なくらい似ています。

画像

研究者たちは、未来の技術を作ろうとしていたわけではありません。ただ「なぜそうなるのか」を知りたかっただけです。その知識が、数十年、ときには数百年たって、世界を支える技術へと姿を変えました。**だから基礎研究は難しい。**始めた瞬間には、その価値が誰にも見えないからです。

でも歴史を見るかぎり、人類を大きく前進させた技術ほど、その出発点は「そんな研究、何の役に立つの?」と言われるようなものでした。

次にその言葉を聞いたとき、私はこう思うのです。

もしかすると、それが100年後の世界を支える技術になるのかもしれない。

だからこそ、好奇心を支えたい

ここで、大事なことがあります。何に本当の価値があるのかは、その時代の誰にも分からない、ということです。

予算を決める政治家にも分かりません。同じ分野の他の科学者にすら、分かりません。RSAも、CRISPRも、量子もつれも、当時の「目利き」が見抜いていたわけではないのです。価値は、ずっと後になってから、ようやく姿を現しました。

つまり、「役に立つかどうか」を入り口で見極めること自体が、そもそも無理な相談なのです。

だとすれば、私たちにできる一番賢い選択は、こうではないでしょうか。

**「これは何の役に立つの?」と問い詰めるのではなく、 純粋な好奇心で問いを追いかける人たちを、支えること。**未来がどこから来るのかは、誰にも見えません。でも歴史は、その未来がいつも、好奇心旺盛な人たちの「なぜ?」から生まれてきたことを、何度も証明しています。

だから——役に立つか分からない研究にこそ、そして知りたいという気持ちを燃やす人にこそ、私はエールを送りたいのです。

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