Invent or Die 6 中島聡 x 片山恭一

司会:お待たせしました、それではお二人に対談を始めていただきたいと思います。よろしくお願いします。
片山氏:どこから話せばいいのかよく分からないですけど、片山と言います。
さっき楽屋で中島さんとお話ししていたときに「片山さん、ホームページクローズになってますね」っていうお話があって。「止めちゃったんですか?」って言われたんですけれども。やめたわけじゃなくて、今1週間ほどページを閉じて作り変えてもらってるんです。
僕のホームページの面倒を見てくれてるウェブデザイナーの人がいまして。その人と月に1回ずつぐらい会ってミーティングするんです。この間彼が言ってたのは、「片山先生、僕いろんな人に聞いてみたけど、誰も片山恭一って知らないんですよ」って。結構いろんな職種、いろんな年齢層の人20人ぐらいに聞いてくれたらしいんですけど、ただ1人として片山恭一を知らないらしいんです。しかし、「『セカチュー』って知ってる?」って言うと大体知ってるらしくて、映画を見たり、テレビを見たり、場合によっては小説、原作を読んだ人もいたらしいんです。しかし、作者名は知らない。「これはどういうことなんでしょうね」と。「どういうことと言われても。それは君が代みたいなもんで、君が代もみんな歌ってるけど、作者は知らないんじゃない?」「そういう話なんだけど、それでいいんですか?」って言われるから、「それはちょっと困るかもしれない」っていう話になって。誰もどうせ片山恭一知らないんだったら、でも、『セカチュー』の認知度は高いんだから、「そっちをメインに開き直って『セカチュー』でとりあえず読者を集めた方がいいんじゃないですか?」っていうことになって。それで今までの僕のホームページは『片山恭一の小説のために』か何かというタイトルだったんです。これじゃ人が集まらないっていうのが分かって、それで『セカチュー・ヴォイス』とリニューアルして、そういうのを4月からやるということに一応なってるんです。巻頭に、僕が『今日のさけび』という短い記事を書いて、それをとにかく2~3ヶ月毎日更新してくださいって言われてて。僕は福岡に住んでて明日帰るんですけど、明日帰ると気が重いんですけども。
それで何をやろうとしてるのか。大雑把なビジョンはありまして、とにかく僕のファンサイトというか、固有の読者と言うんですか。いつもブログを覗いてくれて、僕の小説に興味を持ってくれるような読者を、とにかく100人、できれば500人ぐらい作りたい。「そこまで行けば1,000人ぐらいになるんじゃないか」とウェブデザイナーの人は言ってくれてるんですけど、今のところ数十人しか来てくれてなくて。これは何とかしなければいけないということなんです。それでいろいろ、そういうことを考えてくれてるんです。
読者を集めて何をしたいか。いろいろやりたいことがあるんですけど、一つは仮想通貨を発行したいんです。セカチューという仮想通貨を発行しまして、それをコアな読者に。例えば10人なら10人に1セカチューずつ僕がプレゼントするわけです。ブロックチェーンみたいな技術を使って、ちゃんと履歴がはっきりしてて、僕から出たものだという履歴のはっきりしたセカチューという仮想通貨、トークンみたいなものを発行する。それを僕のページによく来てくれる人、あるいは感想をくれる人、いいねを何回も押してくれる人。コアな読者を10人ぐらい選んで、その人たちにあげる。その仮想通貨は、誰かに贈与しないと増えないんです。だから、もらった人はもらわれたくないかもしれないけど、誰かにその1セカチューを贈与する。1度贈与すると、その1セカチューは2セカチューになるんです。その次の人がまた贈与すると、今度は3セカチューになっていく。そうして1人贈与するごとに価値を増殖していくようなトークンを作りたいんです。
それで何をするかと言うと、最終的に貯まったセカチューというトークンで、僕の電子書籍を買ってもらう。あるいは50セカチュー貯まれば、僕の新作を他の読者に先駆けて読むことができます。誰も読みたくないという問題が発生する可能性もあるんですけれども、できればちょっとやってみたいなっていう。それで仮想通貨、贈与経済の具体的なイメージが少し掴めるんじゃないかっていうことで、そういうことをやりたいって、今考えてるんです。
シンギュラリティの話をします。なぜシンギュラリティに興味を持ったのかってさっき聞かれたんですけど、特に興味を持ったわけじゃありません。たまたま行き掛かり上シンギュラリティ、シンギュラリティって言ってるだけです。僕の中でもよく分からないところはあるんですけど。ただ、いろいろと素人なりに聞きかじってみると、AIが人間の知能を超える、人間以上の知的能力を持ったAIが生まれるという意味でのシンギュラリティは、多分来ないだろうと思います。それは実感として、AIがいくら賢くなっても、恐らく安倍晋三も凌駕することもできないだろうと思います。
しかし、一方で、さっきも中島さんとそういう話をしてたんですけど、なぜトランプみたいなやつがアメリカの大統領をやってるんだと。歴代大統領、ワシントンからずっと見てきても、明らかに欠陥品というか、異常な人だと思うんです。人格的に誰が見ても。それは一つのシンギュラリティなのかもしれない。一番広く捉えたら、トランプのような人がアメリカの大統領になってしまったっていうのは、シンギュラリティかもしれないです。技術革新が起こってアメリカの中間層が没落していって、貧困化していった人たちが、多分共和党とかトランプを支持してるっていうふうに考えられる。そうすると、広い意味での技術革新の結果がトランプという大統領を生み出してしまったと言えるだろうと思うんです。ですからシンギュラリティを、僕らもどういうところで一番考えればいいのか、いろいろ勉強してるところなんですが、結構幅がある。それぞれイメージしているものがAIにしても、シンギュラリティにしても、どういうことを言おうとしているのかが人それぞれという感じがまだする。だから、なかなかそこで議論が噛み合わない。一方でバラ色の未来を語る人もいれば、人類絶滅みたいなことを言う人もいる。そこらの共通のイメージが掴めていないような感じがするんです。そういうところから、中島さんとお話しできればと思うんですけど。

中島氏:私は徹底的な理科系なので、「情緒部分に欠けてる」と、よくうちの妻にも言われるんです。
例えば、車を運転してると、突然後ろから車がバッとうちの車を抜いていくと。その状況でうちの妻は「なんであの車は、あんなことをするのかしら?」って言うときに、僕はごく普通に「急いでるんじゃない?」とか言っちゃうんです。でも、それは間違いなんです。彼女から言わせると。結婚も30年してやっと分かってきたんだけど、要は彼女は僕に「なんて嫌なやつなんだろうな」って言ってほしいんですよ。だけど僕、それは言えないんです。つまり、彼女の言葉の「なんであんなことをする」っていうのは、実はあんなことするなんて嫌なやつだなんだけど、そういうふうには僕には解釈できない。「なんであんなことをする?」って言うから、「なんで」なんだから、相手の立場になって考えてみよう。トイレでも行きたいのかな? と思っちゃって答えるんです。
っていう、ちょっと情緒に欠ける部分があるんですけど。シンギュラリティのことになると僕はいつも思うのは、シンギュラリティになったって、結局職は増えるとか言う人はいるけど、それは全然うその話で。結局職を奪うわけです。そうすると、大量の失業者が出たときにどうしたらいいか。どうしたらいいって言うと、ユニバーサルインカムでみんなに社会保障をすればいい。そこまでは理科系の私でも答えられる。
だけど、じゃあ、そういう状況。例えば、人口の10%の人だけがAIを操る側にいて、ものすごくお金を儲けていて。残りの9割の人は仕事もなく、政府からのユニバーサルインカムで生きているっていう状況が、果たしてその人たちにとって幸せなのか。それが人間社会のあり方として正しいのかっていう話になったら、倫理のことだったり気持ちのことなので、そこで私は割と思考が止まるんです。その辺りを、私と違う脳みそを持たれてる視点から何か語っていただけると、面白いかと。

片山氏:ベーシックインカム。例えばフィンランドが試験的にやったんでしょうけれども、僕はあのやり方だけだとどうも上手く行かないような気がするんです。富の再配分というか、儲けすぎた人たちが貧困層に一律、例えば日本だと1人当たり100万円ずつ受給する。そういう形のベーシックインカムはある程度やられるかもしれないけれども、それだけではどうも上手くいかなくて。
僕が考えるベーシックインカムは、既にかなり実現してる気がするんです。例えば、Googleなんかがやってる検索機能にしても、あるいはSkypeなんかにしてもそうです。あるいはスマホの通話、インターネットの接続料にしても、かなり無償に近いビジネスモデルが出てきている。Amazonでもなんでここまでサービスしてくれるんだろう。朝注文したものが夕方にはちゃんと届くとか。しかも、配送料無料で届いてしまうとか。これは可視化されてないけど、目に見えないベーシックインカムみたいなものだと、考えることができると思うんです。僕たちが普段使ってるGoogleとか、Amazonとか。例えばスマホにしても。スーパーコンピューターが最初に出てきた頃、富士通なんかがやっていたので言うと、何億円のスーパーコンピューターよりも格段に進歩したスーパーコンピューターが、今、中学生のポケットにも入ってる。これは見方を変えれば、ものすごいベーシックインカムで。僕たちは無償に近い形でテクノロジー、サービスのを既に供与されてる。そこをただ上手く使いこなせてなくて、スマホにしてもLINEとかSNSぐらいでは、まだまだ僕は可能性を引き出せてないと思うんです。そういうべーシックインカムというか、インフラみたいなのはかなり整備されていて。政府なのか、あるいはGAFAMのようなところがやるのか分からない。社会保障、一律に何がしかの金銭なのか、あるいは仮想通貨なのか分からないけど、そういうものを供与される。その二つで未来の社会、貧困層っていうのは平定されていくような気がするんです。
ただお金もらうだけだと、それで最低限の生活はするとして。あともう半分のべーシックインカムのようなもの。無料で供与されてるインターネット環境とか、あるいはスマホのようなインフラを上手く使っていけば、僕たち1人ひとりが表現者というか、いろいろなことを表現していける。そして世界に発信していける。既にそういうインフラは、僕たち日本人であればほぼ誰もが持ってる。それを上手く使っていくと、負け組とか言われてるけど、見損なってもらっちゃ困るっていうか、それぞれ1人ひとりが何か面白いことをやっていけるんじゃないか。そういうところから、もう1回僕たちの生きるっていうか、生活をデザインし直していけるんじゃないかと思うんです。

中島氏:ルネッサンスとか、あの辺の時代のいろいろな発明とか芸術家って、みんな貴族だったり、貴族のスポンサーがついたりして、働かなくていいからこそクリエイティブなことができたみたいなのはある。だから、ポジティブな見方をすれば、そういう人たちは自由になる。音楽が好きな人は音楽を作って暮らしていればいいわけで。プラスの面で見ると、それは確かにそうですよね。

片山氏:クリエイティブな仕事が、今までの捉え方では狭すぎる気がするんです。クリエイティブって言うと、何か目に見える形で絵を描くとか、音楽を作るとか、あるいは小説を書くとか、あるいは何か発明をするとか。せいぜいそれぐらいのものがクリエイティブなこと、あるいは表現行為って考えられてたんですけど。
ここからは僕が専門にやってることですけど、僕が主に書いてる小説っていうのは、誰かが誰かを好きになるストーリーが多いわけです。なぜそういうところをしつこく書いてるのか。僕は特に色ぼけしてる、恋愛中毒みたいなものではないんです。一夫一妻制でちゃんとやってるんです。僕はこの間60歳になったんです。60年生きてきて、人が生きていて一番いいことは、誰かと出会って誰かを好きになって。その人と一緒になるのかどうか分かんないけど、それ以上に心がときめいて世界の景色が変わってしまうような体験はないような気がするんです。僕は生涯に1回か2回ですけれどもそういうことがあって。どう考えてもこれ以上に生の充実感というか、心がわくわくして楽しくて、生まれてきて良かったと思うようなことは、どうもないような気がする。その延長で、例えば家族を作って、子供が生まれて、子供を育ててっていうのもやってみて良かったとは思うんですけれども。
そうすると、人間が生きている一番中心には、誰かと出会って、誰かを好きになることがあると思うんです。好きになるっていうのはどういうことかって言うと、これは極めて創造的な、クリエイティブな行為であるはずで。
なぜかって言うと、例えば『タイタニック』っていう映画。ディカプリオが演じるジャックという画家志望の青年なんですけど、それがタイタニックの船上でローズっていう女性と出会って、タイタニックはサウサンプトンを出港して2~3日で沈んじゃうんです。その間に2人はお互いに世界で一番大切な人になってしまったわけです。これをAI的に考えると、ローズはA=Aですからローズはローズでしかないんです。でも、ジャックにとっては。最期、彼は氷の海に浸かって「君は生きろ」と言って自分は海に沈んでいくんです。ローズっていうのは、自分の命よりも大切なものになってしまう。そういう大切な、ジャックにとってただ1人のあなた、ただ1人のローズを、ジャックが2日間ぐらいの間に創造した、創り上げたと考えた方がいいと思うんです。誰かと出会うっていうことは、必ずそういうクリエイティブな要素が入っている。創ってるんです。世界中に何億といる人の中から、ただ1人のあなたっていう、二人称でしか言いようがない相手を作り出す。それを僕たちは何気なくやってて、それが恋愛とか人を好きになるとか、愛してるか何か分かんないけれども、人が出会うことの根本にある。そうすると、人間のクリエイティブな行為、創造行為の根本には、どうも誰かと出会う、誰かを好きになるのか、誰か大切な人、自分よりも大切なあなたという観念を用いることが、どうもあるような気がするんです。そこが多分人間の、善良なものの源になっている。
AIの中にアルゴリズムしかないのと同じように、自分が自分であることも結構空虚で、空っぽな気がするんです。だから自己実現と言っても、何か目に見える形でパフォーマンスを上げないといけない。学校の成績でいい点を取るとか、会社でいい働きをするとか、アスリートになっていい成績を残すとか、お金を儲けるとか。何かそういうもので埋めていくと思うんです。あるいは消費行為とか、お酒を飲むとか、ものを食べるとか、いろいろ含めて。過食症とか、あるいは過剰に働くとか、過剰に金を儲けるとか。なぜやり過ぎてしまうのかって言うと、多分自分は空っぽで、空っぽだから何でも入るからだと思うんです。善でも、悪でも。だからテロリストにもなれるし、マザーテレサにもなれるし、何にでもなれてしまう。それぐらい自分っていうものは空っぽ。一人称は空っぽだと思うんです。
じゃあ、三人称はどうか。彼とか彼女とか名指すところから僕は悪は生まれてくるような気がして。三人称からどうも悪が生まれてくるような気がするんです。
人間の世界が滅びずに、何とかやっていけるのは、もう一つ人間の中には二人称っていうのがあるから。誰にとっても大切なあなたっていう、二人称でしか言いようのない人が、本当は目に見えない形で住み着いている。それがたまたま出会いという形で可視化され、実体化されるようにして人は出会う。僕たちは夫婦を作って、子供を作ってということを何万年もやってると思うんです。
そうすると、人間の善なるものはどこにあるか。多分二人称を用うるところにあるような気がするんです。そこが僕は、人間の一番可能性だし、そこを思いきり誇張して、人が生きることの中心に据えていけば、そこからいろいろな表現行為が出てくると思うんです。例えば、大切な人を喜ばせるために美味しいお料理を作りたいとか。あるいは疲れていれば肩を揉んであげるとか。花を植えるとか、いろいろあると思う。好きな人に読んでもらうために小説を書くっていうのもあるでしょう。好きな人に向けて音楽を作るっていうのもあるでしょう。そこから、もっと今まで考えられてきたよりも、うんと広い幅の表現行為、クリエイティブなもののイメージが生まれてくるような気がするんです。
そういうことを、僕たちは僕たちなりにベーシックインカムとインフラを活用しながら何かやれるんじゃないか。そういう生活をデザインしてみたいっていうのが、僕が今思ってることなんです。

中島氏:生活のデザインなんですか? 小説を書くとかじゃなくて?

片山氏:小説を通してになるでしょう。僕の場合は、小説を書くことと考えることがほとんど一緒のところがあるので。僕にとって考える行為は、小説を書くことになるんですけれども。

中島氏:特に恋に落ちる部分のメカニズムは、ものすごく興味があるんです。私も今までいろんなことやってきたんですけど、iPhoneが出たときに、フォトシェアっていう写真共有サービスを作ったんです。ちょっとInstagramとは違って、もう少しコミュニティ形成型にしたんです。そしたら、その中でものすごい勢いの友達関係が作られて、実際恋愛して結婚した人も3組ぐらいいたんです。僕はその人たちにすごく感謝されていて。僕は出会いの場を作ってあげたわけで。Instagram出てきたからやめちゃったんですけど。意図はしてなかったんだけど、恋愛感情が起きてしまう場を、インターネットサービスで作ってしまったっていうのは非常に面白いことだと思っていて。もう少し人間がどうして恋に落ちるかっていうメカニズムをちゃんと理解して、サービス設計をしたら面白いものができんじゃないかと。変な、いかがわしい出会い系サイトの話じゃなく。本当に一生に1度か2度しか出会わない人に出会えてしまう。もしくは、ローズが本当に、あなたしかいないローズになるプロセスを、アプリケーションとかサービスで助けることができたらいいのかなみたいなのは、ちょっと感じてる。

片山氏:僕は、それはできないような気がするんです。なぜかって言うと、最近、中島さんがブログで取り上げられてて、僕も読んだんですけど。新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子供たち』かな? その本を読んで面白かったんですけど。
新井さんは「AIには意味は理解できないんだ」っていう言い方されてたけど、AIにも理解できる意味はあると思うんです。数学的言語っていうか、四則演算だとAIにも理解できると思うんです。1+1=2とか。確かに数学的な演算の、誰もが理解できるような、一番共通言語っていうか、そういうものとして数学的な言語があるけれども。意味の幅が非常に広くて、誰かを好きになる、この人を好きになるっていうのは、多分1人ひとりにとって意味が違うと思うんです。例えば教師データという言い方をすれば、教師データとしてAIに教えることができないようなもので。例えば1人の誰かと、中島さんにとっての誰かっていうのは全く意味が違ってきますよね。100人の女性がいて、そこに1~100までランクがつけば僕たちは殺し合いをするしかないわけで。一番上の相手を巡って殺し合いをするしかないわけです。けれども、幸いなことに蓼食う虫も好き好きというか十人十色というか。僕がいいなと思っても、あばたもえくぼで、「なんじゃそれは。お前、あんなのがいいのか」っていうようなことはたくさんあるわけです。そうすると、正解っていうのは多分100人いたら100通りの正解がある。それが人を好きになるっていう世界だと思うんです。だから、1人ひとりの意味が全部違うような誰かと出会うという意味もあれば、数学の四則演算のように、誰でもが共通して納得できるような意味もある。その意味の幅が非常に広くて、その総体を僕たちは多分生きている。そこが人間の性の豊かさというか、汲み難いところ。奥深さと言えるかと思うんですけれども。

中島氏:そう考えると、小説、特に恋愛物って恋に落ちるプロセスを描くじゃないですか。で、それなりに見てる人は納得しちゃうじゃないですか。あれは面白いですよね。価値観は違うわけだから。必ずしも見てる人全員がローズを好きになるわけじゃないけど、ジャックがローズに惚れたことに関しては、見た人はみんな納得するわけです。あれは脚本なのか、演技力なのか分かんないけど。それは小説をお書きになってて意識します? 読者が納得できるように書く。だって共感してもらわなかったら駄目じゃないですか。大体映画とか見て面白くないって思うのは、主人公の行動に納得できないときですよ。

片山氏:読者を納得させられるかどうかはよく分かんないです。僕の『世界の中心で愛を叫ぶ』っていう作品は300万部ぐらい売れたらしいんですけど、書いてるときにそういうことをチラッとでも思ったかというと、それは全然なくて。たまたまそうなっただけなんです。僕は長く小説を書いてきて、20作ぐらいは多分書いてると思うんですけど、ただ、あの小説を書いてるときには自分自身に何か届くものがあったような気がするんです。『世界の中心で愛を叫ぶ』っていう小説を書いてたときに、人を好きになるっていうのはこういうことだったよな、こういう感覚だったよなっていうのは、何か自分に届いたような気がするんです。その僕自身に届いたものが、多分他の読者にも届いているんだろうという気はします。
ただ、小説の中で朔太郎っていう男の子が亜紀っていう同級生を好きになるんですけど、多分読んだ人は、亜紀ちゃんをそれぞれが想像してると思うんです。自分の好みの亜紀ちゃんを。だから、小説っていうのは広く読まれるっていうところがある。
じゃあ、映画の場合はどうなのか。実際に女優さんが演じるわけだから、そこはかなりイメージが固定されてくる。そこは別の要素でもう少しお客さんを引っ張らなければいけないところは出てくるのかもしれないです。ケイト・ウィンスレット、俺好みじゃないけどな。なんでこんなやつのために冷たい海に浸かって死ななきゃいけないんだろうって思う人もいるかもしれない。それは可視化することに伴うリスクっていうか、クリアしなければいけないとこのような気がします。
ただ、小説の場合は幸いそこまで可視化されないので、1人ひとり、多分読者が作ってくれるんだろうと思うんです。自分にとっての大切な人のイメージ。顔形も含めて漠然とした雰囲気っていうか。だから、同じ小説を読んでいるけれども、イメージしてる世界、実際に読者1人ひとりが見ている光景は微妙に違ってるかもしれない。それは書くという行為と同じぐらい、多分読むという行為もクリエイティブな行為で、そこには創作が多分に入ってるような気がするんです。

中島氏:自分の経験で言うと、小説を先に読んだ場合、小説を先に読んで楽しんでから映画を見ると、大体がっかりするんです。多分そのがっかりの理由は、イメージを自分で創ってたから。それがずれるじゃないですか。そのせいかもしんない。
じゃあ、小説を書くときは主人公とか、ヒロインのイメージはあんまり持たないで書きます?

片山氏:僕の中では持ってるんです。ただ、それを多分誤読してくれるっていうか、それぞれの人たちが別のイメージを自分なりに作り変えてくれてるんだろうと思うんです。
僕、よく思うんですけれども、例えば自然科学について書かれたもの、ギリシャ時代に書かれた自然科学。アリストテレスでも誰でもいいけれども、古典としてしか読めないと思うんです。現役に通用する数学も含めて。ユークリッドなんかは部分的にはまだ使えるのかもしれないけど。自然科学の本はどんどん時代遅れになっていて、過去の文献としてしか読めないものだと思うんです。しかし、イソップ童話とかは何千年も昔に書かれたものです。聖書にしても、ギリシャ悲劇にしても、あるいは日本の源氏物語にしても、1,000年ぐらい経ってるわけです。それは古典として読まれてるけれども、現役の本として文学としても読まれてて。それはなぜかって言うと、多分読者1人ひとりが新しい読み方を作り出してきてるからだと思うんです。例えば、1,000年前の人と現代の僕たちが源氏物語を読んでも、多分新しい読み方をどんどん僕たちが更新している。文学書、文学作品っていうのは、そういうふうにして生き残っていくようなものだっていう感じがするんです。

中島氏:その意味で言うと、あまりイメージが固定されてない小説の方が、長生きはしそうですね。

片山氏:聖書なんかは特にそうです。本当に語彙は少ないんです。限られた言葉で、『新約聖書』は特に書かれてる。けど、それが2,000年読み継がれてきてるっていうのは、多分情報が少ない分だけ信者、読者がそこにイメージを膨らませる、自分なりの創造行為を働かせる余地があるっていうことかもしれないですね。

中島氏:ちなみに、セカチューの主人公って若いじゃないですか。何歳でしたっけ?

片山氏:高校生ぐらいです。

中島氏:そこを選んだのは、どういうあれなんですか?

片山氏:一番ピュアな感情を自然に描きやすいからです。年取れば取るほど、なかなかその辺は難しくなるところがある感じがします。

中島氏:僕も自分で時々思い出すと、嫁さんを好きになって結婚したんだけど、その前にもいろいろな人を好きになってるわけです。でも、その好きになり方を考えてみると、中学生ぐらいが一番純粋ですよね。余計なこと知らないからかもしれないけど。その辺がすごく小説の中には、あれは高校かもしんないけど出てたのかと。そこが共感を生んだんじゃないですかね? 殺伐としてる世の中で、特にいかがわしい出会い系みたいなのがあって、そっち方向にばっかり流れてる中で。でも、みんなもっと純粋なものをどっかで持ってて求めてて。純粋さに対する飢えみたいなのがあって、そこにマッチしたのかな、みたいに僕は解釈したんですけど。

片山氏:ちょっと僕の小説の話をしたんで横道に。すいません、変な話になっちゃったんですけど。
結局意味の幅が広いっていうことを言いたかったんです。1人ひとりにとっての固有の意味というのと、数学的な言語のような、四則演算のような、ある程度一般化できる意味がある。本当はその意味の振り幅、領域というか、幅の中を人は本来生きてるはず。なのに、僕らが考えるAI、あるいはテクノロジーがどんどん進化することによって、意味がどんどん数学的な言語に集約されてくるんじゃないかっていう感じを受けてるんです。AIは結局AかBか、イエスかノーかっていうところで判断していくと思うんです。人間の世界の意味も結局善か悪かとか、真と偽とか、そういう二項対立のところにどんどん集約されている。テロリストは悪で、別の方は善だとか。病気は悪で、だから撲滅しなければ。がんは悪だから撲滅しなければいけないとか。善悪とか真偽とか、そういう二項対立のような非常に痩せた意味のところに集約されていて、そこで世界が作り直されていくという。そういうちょっと嫌な感じがしてるんです。その辺りは、エンジニアの中島さんとしてはどう思われます?

中島氏:今のAI、特にディープランニングは、基本的には大量なインプットを受けて、大量だとデータとして使いようがないから、それを集約させていくわけです。例えば動物、写真を見て、写真っていうのはピクセルデータだから、ものすごい膨大な、1個の写真何メガ、何十メガバイトあるものから、これは猫ですよとか、犬ですよっていう、わずか100通りぐらいの答えに集約させていくのがAIの仕事。要は曖昧さを除くとか、データとして扱いやすくすることこそがAIの仕事なので。おっしゃってるような曖昧さを消すための存在だから、別にそれがいい悪いの話じゃなく、最終的に人間が使うときに、それが結局便利じゃないですか。という話だと思うんです。
ただ、そこで曖昧さが消えちゃうから、例えば、AIに異性の評価をさせようと言って点数をつけちゃうと全員に1~100点がついてしまう。それが万人に共通してたら、確かに全員で100点の人を奪い合うことになるから。でも、そうは本当はならないのは、計算のプロセスそのものが個人個人違うから。その辺りは、AIはあんまり得意じゃないですよね。

片山氏:意味の幅があるから、1人ひとりの個人もいろいろな幅があるんです。けれども、それがどんどん集約されていくと、例えば個人融資ですとか、あるいは遺伝子診断という形で、どんどん1人の人間がA=Aに近づいていくような感じがしていて。そういうところで、人間の生そのものが痩せ細っていくようなイメージも一方であるんです。

中島氏:中国なんか、確かに点数をつけ始めてるんで。何点満点か忘れましたけど、700点以上だと自由に旅行もできる、お金も借りられる。でも、あまりに点数が低いと飛行機に乗れないとか、お金が借りられないとか。お金を借りようとすると金利が高いという世界は中国でできてしまっている。それはお金を貸す銀行、もしくは人を管理する中国警察にとってみると分かりやすいから楽なんです。一つの次元で見れるから。でも、本当は一つの次元なんかってもっと複雑だから、もうちょっと曖昧な形、もしくはもうちょっとパラメータの多い点数の方が正しいのかもしれない。けれども、便利だから一つの点にしてしまってるみたいなのは、弊害って言えば弊害ですけどね。1度点数が低くなっちゃった人が上がりにくいみたいな状況にはなってると思います。

司会:小平さんにモデレーターとして入っていただいて。

小平氏:たまたま今日はこのお二人と共通の友人で、2人を会わせたのは僕で。シンギュラリティの旅を僕と片山さんであっちこっちでやってるんです。そこでシンギュラリティを一体どうなんだろうということで、今日は中島さんにチャレンジということで、2人でのこのこやってきたんです。
最初、そういうことがあってお二人で話をしようということで、今日は皆さんにシンギュラリティを文学的、哲学的にどう分析したらいいかを片山さんに語ってほしいということで、僕は今日はモデレーターということでお邪魔しました。
ちょっと行き詰まっちゃったんで。AIが真剣に頑張ったら、ノーベル賞を狙うようなAIができたときに何賞を取るだろうと。皆さん、何賞を取ると思いますか? ノーベル何賞でしょう? AIが取るとすると。何かありますか? 僕の親友のポール・サッフォーという未来学者は、文学賞だと。医学賞でも物理学賞でもなく、最初にAIが取るノーベル賞は文学賞だと話している。そのことで片山さん。シンギュラリティというのは、どういう一つの革命をみんなに示唆してるか。宗教的とかいうような話もしてるんですけども、そこのところ、ちょっと今お話をしていただきたいんですけど。

片山氏:小説について言うと、多分そういうアルゴリズムが出てきて、創作を助けるようなコンピューター、ソフトが誕生するだろうと思うんです。それはさっきもお話ししたんですけど、カメラにAIが搭載されてデジカメになることによって、それまで勘とか経験でやってたようなシャッター速度とか、絞りとか、そういうところを自動的にAIがやってくれる。そういう意味で、小説を書くツールは十分出てくるだろうと思うんです。そして、それによって例えば面白い小説、ワクワクするような小説は誰でも手軽に書けるようになるかもしれません。
ただ、それが僕らが考える文学かと言うと、それは多分別のものになる気がするんです。デジカメで撮ったからといって作品でないとは言えないけれども…。どう言えばいいんでしょうか。結局コンピューターにできる、AIにできることっていうのは、膨大なデータを集めてそこで学習していくわけですから。こういうストーリーにすれば売れるとか、こういうストーリーにすれば人を泣かせることができるとか、こういうストーリーにすれば人を興奮させられるとか、そういうものっていうのは作り上げる力があると思うんです。それをつなぎ合わせて、例えば1晩の暇つぶしの本は無数に、誰でもが書けるようになるかもしれない。飽きられるから、それはどんどんAIも賢くなっていかないといけないんでしょうけども、せいぜいそういう使われ方じゃないかと。
しかし、小説を書く、文学を書くっていうのはどういうことかって言うと、結局、僕はいつも言ってるんですけど、1人の読者に向けて書くっていうところがどうしてもあって。その1人の読者っていうのは他人かもしれないし、自分かもしれないですよね。自分自身に向けて書くところがどうしてもある。さっき、僕がたまたま昔書いた作品は、自分に届いたような気がした、ごく不完全ですけれども、自分に届いたような気がしたと言いました。そういう作品、自分に届く作品、自分という固有なものに届く作品が、多分普遍性を持って多くの人に届くことになると思うんです。
だから、目指してるもの、ベクトルが逆っていうか。AIがディープラーニング、機械学習によってたくさんのデータを集めてヒット曲を書くとか、あるいはヒットしそうな、ベストセラーになりそうな作品を書くとか、そういうのは出てくるかもしれない。けれども、本来1人1人が小説を書くっていうのはそうではなくて、自分の言葉が本当に自分に届くだろうか。自分を支えられるだろうかと。
さっきもお話ししましたけど、自分が末期のがんを宣告されて、余命6ヶ月とか言われたときに、じゃあ、果たして自分の言葉で自分を支えることができるだろうか。今、テクノロジーがいくら進歩したと言っても、死を説くテクノロジーはないわけです。延命か、あるいは医学的な治療で死を先延ばしにすることはできるけれども、死そのものを説くテクノロジーというのは、僕はあり得ないと思うんです。それは人間が言葉によって、思考によって説くしかなくて。そうすると、どこで死を越えられるかというと、そこが僕らが一番考えるところですけど、いくらテクノロジーが進歩して、アンチエイジングとか、延命とか長生きできる、長寿が実現されたと言っても、死そのものに伴う絶望感とか、寂しさとか、虚無感とか。そういうものは乗り越えられるわけじゃないんです。それが先延ばしにされるだけで、死そのものは全然説かれていない。
あるいは、そうやってお金をかけて延命していって、健康を手に入れて、長生きする。長寿になることが幸せなのかどうか。ただ死なないために生きてるだけのようなことが、健康が生きることの目的になるとか、年を取らないことが生きる目的になるとか、それは本当に楽しい生き方なんだろうか。さっき僕が言ってた恋愛とか、人を好きになることっていうのはどこへ行っちゃったんだ。短くてもいいから、ジャックみたいに本当に好きな人と出会って、氷の海に沈んでいく方が幸せなのかもしれない。少なくとも、そういう映画が人の心を打つことは確かなんです。しかし、アンチエイジングで長生きして、100歳とか120歳まで生きる人の映画がドキュメンタリーとして人の心を打つかと言うと、打つかもしれないけれども、それはまた別の心の打ち方で。
そうすると、考えるべき問題っていうのは数千年全然変わってない。人が生きるとは何なのか。人の幸せとは何か。人の死というのは何か。どこで死を説けばいいのかっていうのは、全く解決されてないと思うんです。2,000年前にイエスが出てきて、あるいはシャカが出てきてそれなりに説いたけれども、それに納得できない人がいるから医学を進歩させて、少しでも長生きしようという人がいるわけです。だから、死に納得して死んでいった人はやっぱりいないわけで、納得できないから長生きしようとすると思うんです。
しかし、本当に死というものが説けたら、僕は納得して死んでいくことができると思うんです。長寿か短命かにかかわらず。長く生きられない人もいるわけですよね。小児がんなんかで死んでいく子供もいるわけで。彼らのことはどうなるんだ。生まれてきて良かった、生まれてきて丸儲けっていうような考え方を作んないと、人間やっぱり敗北だと思うんです。人間の知的能力って一体なんだい。自分の死すら説けないじゃないか。動物はただ黙して、うちの猫ちゃんだってひっそり死んでいってるけど、人間だけジタバタしてあんなに金使ったり、医療を使ったりして最後まで悪足掻きしていくっていうのは、猫以下じゃないかっていう話になってくると思うんです。そうすると、人間の知能、知性って一体何だろう。全くそこのところは進歩していない。むしろ退化してるのかもしれないです。
神は少なくとも僕たちにとっては、この世の生を救い取ってくれるものではなくなった。神がなくなったから、この世の生をできるだけいいものにしましょうっていうので人権思想みたいなのが出てきて、自由平等とか友愛とかいう言葉が出てきた。けれども、それが今足かせになっている。さっきの話じゃないけれども、近代国家、ヨーロッパ・アメリカがなぜ中国に先行されてるかっていうと、人権があるからですよね。はっきり言えば。人権という近代の良きものを持ったがために、それが足かせになって、むしろ人権がまだ整備されてない中国とかインドがどんどんビッグデータを取って、生命科学の領域でずっと先行している。あるいは自動運転の領域でも先行するかもしれない。そういうふうに逆転現象が起こってて、かつて人間を救ってくれた神という概念も、今は殺し合いの原因になってる。自由と平等が今の先進国と言われていたところの、次のブレイクスルーの足を引っ張っている。非常に大きな考えどころに来てて。
そうすると僕らが考えたいことっていうのは、神よりももっといい言葉。自由と平等よりももっといい言葉を作らなければいけない。AIがいくらビッグデータを取っても、AIは既にあるもののデータしか取れない。未知のもの、未知の価値を作るのは、やっぱり人間だと思うんですよ。それをやることができるのは、僕はやっぱり言葉だと思います。言葉がまず出てきて、神っていう言葉が出てきた。神なんて実態化も可視化もできないけれども、何かそういうものがいるという観念が生まれたことで、生きることのできた人たちは膨大にいるわけです。だからキリスト教は2,000年持ったと思うんです。
自由と平等っていうのも、それは影も形もないもので、どこに自由があるんだ。平等があるんだっていうのはなかった。だけれども、その言葉に魅了されて、焼け野原に広がるようにして自由平等が世界を覆っていったわけですよね。自由平等を求めて、それがグローバル化していくとどうも上手くいかなくて。自由平等っていうのは、国民国家っていうか民主主義もそうですけども、一つの国家の中でしか機能しない観念、考え方だったっていうのがだんだん分かってきてて。そうすると、グローバル化して70億の人類を全部自由平等、人権を与えろと言うと、途端に行き詰ってしまう。そこが本当の考えどころで、それはある程度AIによってクリアしなければいけない技術的な問題もある。けれども、僕らが新しい言葉を生み出すというか、新しい考え方、新しい世界を構想してデザインしてっていうふうに、まさにクリエイティビティが要求されている、知的な能力が要求されている時代を僕たちは生きてると思うんです。そういうことを僕も考えたいし、何か共感して一緒に考えてくれてるような人たちとつながって、新しいものを出せないかって。その一つのツールとして、小説とか文学があるって、僕は今思ってるんです。

小平:中島さん、どうですか? AIっていうすごい革命がこの3~4年間出てきたんですけども。シンギュラリティっていう言葉も出てきて。僕たちはちょうど真ん中を見てるというか、その辺の価値観は楽しんでる部分もあるかもしれませんけど、非常に今の時代を生きるっていうのはいいことですよね。

中島氏:いいことですよね。僕は技術者であってビジネスマンなので、技術的にどんどん面白いことができる、どんなものを作ったらそこに価値が生まれるみたいなのを考える。全く変化してなかったら、新参者にとってはものすごく厳しい世界なわけです。というのも、市場を持ってる人たちがそれなりにニーズを満足させてると、そこに食い込むっていうのは簡単じゃなくて。ただ、こうやって新しい技術ができることによって今までやってたものがものすごく安くなるとか、今までできなかったことが可能になる。だから、ビジネスチャンスが生まれる。既存のビジネスを持っている会社は変化のスピードが遅いから、そうするとベンチャー企業にチャンスがあるっていうのは、僕としてはワクワクワクです。
僕にとってシンギュラリティっていうのは、別に2045年に突然起こるものじゃなくて、パソコン、インターネットが出てきた90年代ぐらいから始まっていて。真ん中…。別に終わるわけでもないから真ん中って言い方も変だけど、これから10年、20年どんどん変わっていきます。その中に生きてるというだけの話で。本当の意味でシンギュラリティでAIが人間より賢くなったらどうするとかいうのは、もしくはそれがいつ来るという話をしている人がいるけど、そんなことは全然心配する必要はなくて。それよりもこうやって変化する中で、どうやって新しいビジネスを作るとか、そうすることで生じるひずみみたいなものは、市場のニーズなのでどうやって解決していくか。失業者が増えますとか。という見方を僕はしてます。ビジネスで見るときは3年とか5年ぐらい先を見て、こうやって話すときは10年とか20年の話をするときもあるけど。
この前も対談のとき聞かれたけど、無人コンビニに関してはAmazonがやってるし、中国もやってるし、日本遅れてるじゃないのと。心配じゃないのっていう話が出て来たけど、コンビニを見てれば明らかなニーズがあるわけです。うちの近所にあるコンビニは夫婦がやってるんだけど、24時間必ず夫婦のどっちかがいるんです。それはものすごく不幸な生活ですよね。要は夫婦で一緒に過ごす時間はなく、1人が風邪引いたら、もう1人が24時間やるのかと。普通に考えたら、マネージャーを雇って、その人を使えばいいのに、多分マネージャーは給料が高いから雇えないから、バイトしか雇ってない。そこに激しいニーズがあるわけじゃないですか。その人たちにとって、もし夜中だけでも無人化できたら万々歳ですよね。それだけの進化圧が掛かってるんだから、10年なんかかかんないですよね。多分3年、5年後ぐらいにはどんどんそういうのが無人コンビニ化していって、まずそういう人たちの生活が良くなりますっていうのが起こり。
その内、そうすると今度は、コンビニって実はあんまり投資対象としては良くないです。セブンイレブンみたいな本社は儲かるんだけど、個々のコンビニっていうのは意外と儲からなくて、高々やっとオーナーに人件費平均800万ぐらいが必要。利益が。利益800万円っていうのは、オーナー夫婦で24時間働いて800万円ですよ。考えてみたら、時給1,000円ぐらいですよね。っていうあんまり儲からないビジネスが、無人化することによってやたら儲かるビジネスに変わるかもしれない。そうすると今度無人化した、もしくは無人化する前のコンビニを買いたたいて、無人コンビニに変えて儲ける不動産ビジネスみたいなのが生まれる。そういう妄想をどんどん広げるタイプなので、楽しくてしょうがない。
何だっけな? 今話していた中で、僕いっぱい質問が浮かんだのに。途中で質問しないと忘れちゃうタイプなんだよな。

一同:(笑)

中島氏:とても大事なことを言ってたんです。いいや。だんだん出てくるから。

一同:(笑)

小平氏:そこまでは僕も察知できないです。頭の中開けて見れませんから。
せっかく今日は文学者・哲学者の片山さんと一緒なんで、言葉。しつこく言うけども。特に日本語。言葉をデータ化するというか、小説を書く中でもデータ、自分の中の言葉のデータとか、人間が分かるデータ、機械の分かるデータがありますよね。そういうものはどういうふうに思ってらっしゃいますか?

片山氏: AIのことよく分かんないけど、素人なりにイメージして言うと、AIって言葉を扱うのはすごく苦手ですよね。僕たちだと何か一つ単語を言われたら分かることが、AIはきちんとした文章にしないと理解できないでしょう? だから、言葉っていうのはAIにとって翻訳も含めて、非常に苦手な分野。要するに意味が分かんないわけだから苦手な分野で。そうすると、極端に言えば、言葉のない世界を作っちゃった方が早いってなるかもしれないですね。つまり、仮想通貨によって現金化する、キャッシュレスの社会が中国なんか出てきてますよね。それと同じように言葉として1回表現せずに、そのままデータとデータでやり取りして、それでほとんどのコミュニケーションが成り立つ。何のためにコミュニケーションをやってるかと言うと、これをくださいとか、こうしてくださいとか。自分の希望とか欲求を伝えるためにコミュニケーションをやってる。あるいは、これをしてくださいとか。そういう指示をデータレベルでもやり取りするような仕組みを作っちゃった方が、早いってなるかもしれないんですよね。そうすると言葉が本当に必要なくなって、少なくともビジネスの現場では、いちいち言語化してるっていうのはロスだし、AIは苦手だし、時間もかかる。だから、それを飛び抜かせてデータとデータでコミュニケーションしていく。だから、ビジネスのレベルではそうなっていくかもしれないっていう気がします。

小平氏:中島さん、どうですか?

中島氏:それはすごく。僕が前から思ってたのは、例えば日本語とか、英語もそうだけど、文章って結構曖昧なんです。特にかかり言葉。これはここにかかってるっていうのが、文章に書いてるとすごく曖昧で。だから翻訳が大変なんです。
でも、プログラミング言語って曖昧さを除かないとコンピューターは実行できないんで、曖昧さは除くような設計になってるんです。Cにしろ、Javaにしろ、Swiftにしろ。素晴らしいんです。例えば日本語とかも、書き方を変えたらいいんじゃないかと僕は漠然と思ってたんです。最近メルマガの読者はひょっとしたら気が付いてるかもしれないけど、僕、今話してて気が付いたんだけど、最近文章の中に長いかかり言葉が入ったときに、僕わざと括弧をつけるようにしたんです。その方が読みやすいんです。分かります? 例えば、Amazonは日本で一番の配送量を持つヤマト運輸とこういう契約をしましたって、文章があるじゃないですか。それは長いですよね。日本で一番の配送量を持つっていう部分を括弧に入れると、すごく読みやすくなるんです。そうすると、そこを飛んで読めば、「Amazonはヤマト運輸と契約しました」だからすごく明確でしょう? それって多分、小説とかを書く場合には違反かもしれないけど、メルマガみたいに情報を伝えるものとしては、実は僕は正しい方法じゃないかと思い始めて。多分それは、そんなに意識してやってたわけじゃないけど、今話してて思ったけど 。それをすると、今度そういう文章はすごく多分自動翻訳とかしやすいと思います。そこはその要は主題じゃなくて、かかってるだけだよみたいなのが明確だから。
それを今度極端にしていくと、今度ビジネスの中で契約書とかあるじゃないですか。契約書っていうのは、曖昧さがあるのが一番良くない。だから、ひょっとすると契約書とかも下手に日本語を英語とかじゃなく、プログラミング言語みたいな、契約言語みたいなのを作って、それで記述すると曖昧さは全く除かれる。それを人間が読める言語に翻訳するソフトだけ用意しといてあげれば、それを理解できない人はそれを読めばいい。いざ裁判になったらそっちを見るみたいにすると、今度は日本の会社とアメリカの会社が契約したときには、その言語で契約してるから、曖昧さがない。これ、すごい発明かも。でも、データでコミュニケーションするっていうのはいいかもしれないですよね。特にビジネスの世界ではいい。

片山氏:僕らが使っている日本語でもそうですけれども、非常に曖昧なところがありますよね。ただ、その曖昧なところが人間関係をシビアにしないっていうか、潤滑油になったりとか。あるいは、非常に言語のコストから言うと、名詞だけで通じてしまう。塩って言えば塩が来るとか、コショウと言えばコショウが来るとか。それは、ある常識っていうか、文脈っていうか、ある程度生活習慣、生活スタイルが共有されてないと、そういう言葉の使い方っていうのはなかなか成り立たないと思うんです。
しかし、今これだけグローバル化して、全く価値観が違って、生活スタイルも違って、いろいろな人とコミュニケーションしようとなると、なかなか言葉っていうのは効率が悪い。今言われたように、もう少し別のものに置き換わっていくような側面が出てくるような気がします。もっと効率良く、1対1対応しているような言葉が。いわゆるランゲージじゃなくて、出てくるような気もします。

中島氏:実はコンピューター技術者っていうのは、コンピューター言語を発明するのが好きなんです。大体2年に1回ぐらいは新しい言語が出てきますよね。それはやってるのに、なんで契約専門の言語はないんだろう? これは面白いな。すごい画期的なことを今話してるかもしれない。

小平氏:日本語と英語をするときに、コンピューターは翻訳するじゃないですか。そのときには、コンピューターはいっぺんコンピューター語になってんじゃないんですか?

中島氏:そうですね。中では、これはここにかかってますみたいなのをグラフにして。

小平氏:簡単に日本語をフランス語にもしてくれるわけですから。

中島氏:1回やってます。

小平氏:コンピューター同士話しだすっていうのを上手く利用すると、上手くできるかもしれない。それは専門家ですから。僕たちはもっと甘い言葉で、コミュニケーションをどうやってスムーズにするか考えたりして。手紙をというのは、なかなかあれですけど。それでもSiriとかで話すときに文体じゃなくて、口語で話しするじゃないですか。あれって意識されます? そういう話をする。

片山氏:いや、僕はやったことがないから分かんないですけど、新井紀子さんが書いてたけど、Siriに「イタリアンレストランを探してくれ」って言えば、近くのイタリアンレストランを何件か挙げてくる。Siriに「イタリアンレストラン以外の店を探してくれ」って言うと、やっぱりイタリアンレストランを探してくるらしいんです。というのはイタリアンというキーワードで検索するから、「以外の」というのがまだ教育されてなくて、同じようにイタリアをン。じゃあ、会話のときに「今日はイタリアン以外がいいな」っていうのと、「今日は中華か、日本料理かメキシカンがいいな」って言うのとは、ニュアンスが全然。雰囲気が違ってくるでしょう。

小平氏:なるほど。

片山氏:そこが人間の使う言葉と、コンピューター言語の違いのような気がします。人間は、僕たちはごく無意識に使い分けてるんですよね。イタリアン以外がいいなっていうのと、中華か日本料理にしようかっていうのとは、全然違いますもんね。その後の状況。

小平氏:言葉を忖度してるってことですもんね。だから、おい片山って言ったら、僕と片山さんの関係が結構密な関係。ちょっとかしこまって片山さんって言ってると、そのぐらいの関係だなとか。そういうのっていうのは、人間が自然のうちに忖度してる。それをコンピューターは理解できないかもしれないですね。

片山氏:そう。今の例で言うと、「例えば夕方何食べる? イタリアンなんてどう?」「どっちかって言うと、イタリアン以外がいいな」って言う関係と、「イタリアンなんてどう?」「どっちかって言うと中華か日本料理がいいな」って言う関係は、明らかに違うんですよ。僕たちの感覚からすると。それは全然距離感が違ってくるわけでしょう。そこを小説なんかは書き分けていくわけです。そういうのからすると、思いきりコンピューター、AIが使う言語っていうのは違う感じがします。1対1対応をきちっと定義できないと、AIが演算できない。数学的表現が置き換えられないですよね。

小平氏:中島さん、どうですか? タグを例えば医療用語でAって入れたら、血液型のA型か、インフルエンザのA型か。人間はニュアンスで分かるけれども、機械はAって言ったら、どのA型か分かんないわけですよね。そういうのは、プログラミングだけで解消できるんでしょうか?

中島氏:絶対できないわけじゃないですけど、そこが一番難しいと思います。常識とかバックグラウンドがない中で、即自的に、それだけ見てやろうとしてるんで。それはプログラミングの限界でもあって。
例えばよくあるのは、人間って物理の授業を受ける前から、子供は物理の法則を知っているわけです。この前も見たんだけど、2歳児が袋の中からおもちゃの駒を出そうとしてるときに、ひっくり返しても出ないわけです。振るんです。すると出るわけです。2歳児ですよ。それって、実はすごいことが起こってるわけじゃないですか。まず、ひっくり返すと出るっていう重力の法則を知っている上に、それは布地でできてる袋だから、プラスチックは引っ掛かってしまうから、振ってあげると引っ掛かりが外れて落ちてくる。それは実は物理的にちゃんと理解すれば分かる話だけど、物理的に理解しなくても本能的に。2歳ですよ? わずかな体験から知っていると。誰にも教わらないのに。それって、なかなかAIが教えられないんです。AIはそういう教え方はできないで、ちゃんと物理の法則を教えてとかやってると、膨大なことを教えないと、ロボットは袋からコマも出せないんです。そこが難しさで。人間の賢さは、物理の授業とか、ニュートンの法則とかを知らなくても、何となく生きて、普段ものを触ってるだけで、物理の法則だったり慣性の法則が身に付いてしまうっていうところが人間のすごさで。そういう、そこのブレイクスルーは、まだ起こってないんじゃないかと、僕は思います。

小平氏:でも、そう聞くと人間がいかに素晴らしくて、人間は生きてると楽しいと。いつもニコニコ笑ってて、お金が欲しいとか、その温度はあるかもしれないけど、生身の身体で生きてることが楽しいっていうふうに、逆に思われるのが出て来るんじゃないですか?

片山氏:そう思いたいのが一方であるけれども。今、AIがいかに融通が利かなくて、頭が悪いかっていう話をしているわけですよね。
しかし、AIは人間の能力のごく一部のことをやるんだけれども、それを圧倒的なパワーでやってしまう力を持ってると思うんです。その圧倒的なパワーのところが、例えばフィンテックだったり、画像診断なのかは分かりませんけれども。それがビジネスチャンスになって、そこで新しい企業が立ち上がってくる。そこに富が集まっていくもんだから、そこで世界そのものの貧富の差を大きくしていって、富の偏在を生む力もあるのも事実だと思うんです。だから、人間は賢い。AIに比べると、うんと賢いんだっていうところでハッピーエンドで終わればいいけれども、人間の良さとか賢さを発揮できないような世界にどんどんなっていってて。賢さ、良さを発揮するためにも、まずお金儲けが必要だとか。そういう理不尽な世界になっていくだろうと思うんです。だから、そのときに僕らがどうやって、そういう理不尽な世界に立ち向かっていくのかを考えないと、この流れは僕は変わらないような気がするんです。AIが馬鹿だ。やれることはちょっとしかないと言いながら、世界そのもの、世界の風景を変えていってしまう。下手すると、人間の概念も変えていってしまうかもしれない。
遺伝子ってATGCで4つしかないわけだから、十分に数学的な表現で置き換えられていくと思うんですよ。そしたら、人間の遺伝子を全部読んで、そこのゲノム編集みたいな形で、どんどん遺伝子レベルで人間を変えていく。あるいはアップグレードしていくっていうのは、どんどん出てきますよね。最初は治療目的で、不治の病を治しますとかいう医療目的で始まったものが、例えば美容整形みたいな形でどんどんアップグレードに使われていって。
そこの境界線は非常に曖昧で。遺伝子診断をして、障害児を生むっていう、ダウン症と分かれば中絶するっていうのは僕たちはまだ抵抗があるけれども、しかし、障害児を持つことは社会的な負担をかけるんですよ。社会的なコストの面から考えたら、それはむしろ非倫理的なことになってくるかもしれない。それが自然になったときに、遺伝子診断を受けて、障害のある子は中絶するっていうのが社会のモラルになっていくかもしれない。そういうテクノロジーが、人間の倫理を変えていく可能性は十分にあると思うんです。
だから、僕らが古い倫理観を知ってるものが、こういう障害があっても、なくても関係ないんだよとか、そこまでは言えないかもしれない。そこは難しい。誰でも障害児を持ちたいとは思わないから、そういう医療技術が出てくれば診断を受けるかもしれないですよね。そして、障害児が生まれると分かれば、中絶するかどうかも分からない。それを若い夫婦2人に選択させるっていうのも、かなり無理があるっていうのもあるし。どんどんテクノロジーが先行していくことによって、僕たちの倫理観が追いついていかないっていうか、あまりにも個人の判断能力を超えたところまで判断させられる。例えば、アンジェリーナ・ジョリーみたいに遺伝子診断を受けて、乳がんになる可能性が何十%です。あなたどうされますか? それ、個人で知らなければ良かったって世界ですよね。30%乳がんになる可能性がある。じゃあ、乳房切除するかどうか。それは個人で判断するのは、非常に酷だと言えば酷な気がするんです。そういう機会がどんどん増えてきてて、しっかりした生き方というか、人が生きることの根本を見失うと、僕たちはかなり際どいところに立たされてるっていう感じはします。

中島氏:僕がすごくさっきおっしゃったことで気になってるのは、神っていう概念が生まれて、宗教ができて、人間の行動が変わったとか。もしくは人権っていう言葉ができたことによってそれをみんな意識するようになったっていうのは、僕にとってはすごく。そういう見方もあるんだって思ったけど、考えてみると、コンピューターの世界でも例えばオブジェクト指向っていう言葉ができたからこそ、プログラマーがあるものを目指すようになった。きれいなプログラムの書き方を目指すようになったけど、別にきれいなプログラムの書き方はその前からあった。ただ、言葉ができて明確になって、それが概念として成熟したからこそ、それを勉強しやすくなった。真似しやすくなったみたいなのはすごくあって。
そういう意味で言うと、ひょっとするとそれが作家さんの仕事なのか分かんないけど、このAIの時代になったときに、例えば今までの宗教はかなり時代遅れになってますとか。もしくは人権とか自由っていうのも、必ずしも中国なんかを見てると今の時代に合ってないのかもしれない。その中で、もう1個新しい言葉を生み出すことができると。それが人が生きるときの価値観の指標となって生きやすくなる。新しい宗教が生まれるのかもしれないけど。それはちょっとワクワクする話ですよね。

片山氏:神にしても、全く無から言葉を生み出すっていうことではないと思うんです。人間の中に自分を超えたもの、この世界を超越したものという何か感覚があって、しかし、それを名指す言葉はなかった。けれども、そこに神っていう言葉が生まれたから、一つの宗教、信仰っていうふうに、人を束ねる力がそこに生まれたという気がするんです。
自由とか平等にしても、元々人間の中にそういうものを希求する情念みたいなのがあって、そこに自由平等っていう言葉が与えられたがために、そうか。これを目指して社会を作り変えればいいんだと、そこに人を集約して、協力させる力みたいなのが生まれたと思うんです。だから、僕らが作りたい言葉は、既に人間の中にあるものなんです。しかし、まだ上手く取り出せてないっていうか、可視化できてないっていうか。本当は人間の中に眠っている、世界を変えるような何か情動、情念みたいなものがあると思うんです。思いが。それを上手く言葉にしてやると、じゃあ、70億の人類がそれを目指して、ある程度協力し合えるっていうか、一つの目標を目指して次の100年か200年を人間が生きていける。今はほとんど無目的で、ただビジネスでお金が儲かるところにどんどんテクノロジーが行ってる。
けれども、一つ言葉が生まれることによって、こういう世界を目指せば、誰もが多かれ少なかれ、今よりも幸せになれる。あるいは、この言葉を実現するためにみんな協力し合いましょうというような、多分そういう言葉が今必要とされてるっていうか、望まれてるような気がするんです。

中島氏:ライフスタイルの価値観っていうか、何か求められてる。例えば、さっきの「がんになる可能性が30%あるから切りますか?」って聞かれるんだったら、知らない方がいいとか。もしくは、死に対する死に対する考え方も、死っていうのは自然に起こるものだから、無理に延命しなくてもいいっていう。それも別に悪いわけじゃないじゃないですか。例えば、がんの検査をすると早期発見できるかもしれない。逆に早期発見すると切り刻まれるし、いろんな治療されて苦しい思いもするかもしれない。それだったらがんのことなんか知らずに、がんが本当に命奪うまで、何もしないで生きてた方が幸せだったのかもしれない。もう少し自然な生き方を重視しようみたいな発想、僕はすごくあるんです。でも、それを表す言葉は確かにないんです。あってほしいと思います。例えば、僕サプリメントは飲まないんです。それよりもバランスのいい食事をしようと。あと、医者からコレステロール高いって言われたけど、それほど高いわけでもないし、実害もないし。だからって焼き肉食うのをやめてまで長生きしたくないから、食おうと。別に毎日食う必要もないから、食いたいときに食えばいいぐらいの自然な生き方で。それで別に突然心臓発作で死んでもいいかぐらいに思ってるんです。それは言葉もないし、宗教もない。でも、ひょっとしたら欲しいかも。そういう言葉がはっきり定義されてると、そこに定義があって、その生き方が尊重されるんですね。それは起こるかも。

片山氏:僕自身、個人個人の問題で言うと、僕もそのがん検診は受けないんです。がん発見されて、治療されると怖いから。最初から受けないようにしてるんですけど、それは1人ひとりの勝手というか、1人ひとりの生き方でいいと思うんです。
しかし、僕が考える未来社会っていうのは、例えば遺伝子診断とかゲノム編集にしても、子供たちみんなが遺伝子、ゲノム編集して、優秀な子供を持った子供は将来優秀な子になって、大学に行ってお金持ちになれるとか、いい生活できる。しかし、治療を受けなかった、ゲノム編集、遺伝子を改変しなかった子は落ちこぼれるとか、貧困化する。となると、親の心情として、自分の子供にも治療を受けさせたいっていうふうになっていくと思うんです。そういう形で、多分医療技術っていうのは、個人の好みを超えたところで不可避的に採用せざるを得なくなっていくような場面がどんどん増えていくのではないかと。
1人ひとりの僕自身はいつ死んでもいいやとか、がんになったらうちの奥さんと温泉に行ってのんびりしながら、お迎えを待とうとか思ってる。でも、そういうものとは別に、子供の将来とか、この治療を受けなければお子さんは貧困化しますっていう選択を強いられたときに、それを拒めるだけの世界観っていうのは、僕たちは今のところ持ってないと思うんです。その問題が、僕は一番大きいと思う。実際、現実味があるとすれば、そういう形でテクノロジー、特に医療テクノロジーっていうのは、否応なしに打ち寄せてくるような気がしてるんです。

小平氏:分かりやすいお話ですよね。せっかくなんで、質問のある方いらっしゃいませんか? どうぞ。

質問者:お話ありがとうございました。
今、ちょっと対立構造みたいになってると思うんですけど。情緒的な文学をやっている方と、技術としてやっていく方という対立がある。その中でAI対文学だとか、AI対情緒みたいな、そういう対立があるような感じに話を聞いてました。でも、そうでもないんじゃないかって聞いてて思ったんです。
例えば、さっき中島さんがおっしゃってたように、オブジェクト指向という言葉ができたから、プログラミングしやすくなったとか、逆にAIの力で言葉、文学が生みやすくなる環境があると思うんです。例えば、私は去年修士論文を書いたのですが、そのときにちょっと邪道かもしれないんですけれども、音声入力でガシガシ書いていって、日本語でそれをちょっと整えて、それを後からGoogle翻訳とかを使って英語にざっと変えて、それを整えるみたいなやり方をしてました。だから、言葉がプログラミングに影響を与えるっていうのもあると思うし、プログラミングとかAIみたいなことが言葉に影響を与えることがあると思うし。対立構造じゃなくて、もっと相互補完的なところがあるんじゃないかっていうのは、今回聞きながら思ったりしました。
情緒とか文学というところ、例えば、お話の最初のところでただ1人のあなたっていう言葉があったと思うんです。ただ1人のあなたっていうのを作りだせるというのは、ある意味のクリエイティブなところだったりすると思うんです。中島さんのお話の中から、あなたのためという中島さんのお話の中で、AIっていうのは情報を集約していくものであるっていうお話もあったと思うんです。それって、結局つながるんだと僕は思ったんです。どういうことかっていうと、私っていう例えば人生の中の、いろいろな小説のこんな本を読んできましたっていう情報を集約して、あなたのための作品を作る。感性の振れ幅っていうのはあると思うんですけど、私っていう感性の人が、あなたのためのものを作りだすとか、クリエイトしてくれるAIみたいな存在もありになっちゃったら、それは技術的に可能なんだったら。それをクリエイティブと言っていいのか。

小平氏:どうですか? そこのところを一言ずつ。

小平氏:片山さんはどうですか?

片山氏:分かりません。僕は、例えばあなた、大切な人に何か作ってあげるというよりは、とりあえず美味しいお料理を作ってあげるとか、何かプレゼントするとか。好きな人にどうやって自分の思いを伝えるのかっていうのは、その人なりの表現ですよね。
それはいろいろなやり方があって、別に既にあるものを買ってプレゼントするでもいいし、自力で何か、その人のためにお料理を作ってあげるとか、あるいは、愛の言葉がささやければいい。けれども、そんなことを年中言ってられないし。そこが一番創造的なところ、クリエイティブなところだと思うんです。ただ1人のあなたに対して、自分のあなたへの思いをどう表現するのか、どう伝えるのか。それは100人いれば100通りのやり方があって、得意なやり方でやればいいと思うんです。音楽の好きな人はギタージャラジャラやって、君のために作った歌だよとか。「そんなん聞きとおない」と言われるかもしれないけど。そういうのがいろいろあるのが楽しいわけで。そこは非常に人間というのをイメージするときに、僕は割と明るいイメージで思い描けるとこなんですけどね。だから、「AIのプログラミングを使って、君のためだけに、この小説を書いたよ」みたいなのも、選択肢の一つとしてはあってもいいと思います。ただ、無数にある中のただ一つに過ぎないと思います。そんなのに労力とお金をかける人がどれだけいるのかっていうのは、非常に疑問ですよね。

小平氏:そういうことを考えるだけで楽しいじゃないですか。生身の人間が機械に出会って、魔法の玉手箱のようなコンピューターが出てきて。

片山氏:そうそう。仮想通貨の1セカチューにしても、そういうのを考えるのが楽しいんです。ブロックチェーンとか、仮想通貨という概念ができてきたから、僕らみたいな科学音痴でも、それを使ったら僕がやりたいようなことが少し…。

小平氏:可能性があるかっていうね。

片山氏:うん。実験できるなみたいな。

小平氏:中島さん、どうですか? その辺の。我々の、どっちかって言うとアナログ的なモヤッとした部分を形にすることをずっとやられてたのでしょうけど。

中島氏:小説っていうのはちょっと難しいかもしれないけど。テレビとYouTubeを比べてみると、やっぱり分かりやすいのが、テレビってマスに向けてやるしかないから、なるたけ視聴率10%取るような番組を作る。30%取りたいんだけど、10%。それで流すしかない。けれども、YouTubeに行ってやったことは多い人と思いますけど、YouTubeがお勧めするビデオだけをだらだら見てると、あっという間に時間が経つんです。あれは、あなたに向けたものを、僕に出てくるYouTubeのビデオと、片山さんに出てくるYouTubeのビデオは全然違う。違う理由は、何をいつもクリックしてるかから決まってるんだけど。そういうのは、実は得意ですよね。AIだったり、インターネットが。それが果たして小説とか恋愛まで行くのかって言うと、ちょっと難しい話かもしれない。けれども、少なくともかなりの部分のエンターテイメントは、僕はそっちには置き換わるかとは思ってます。だから、小説も長編小説は難しいけど、短編をだらだら読むようなサービスだったら、今でもやろうと思えばできるし。

小平氏:なるほど。じゃあ、司会にバトンをタッチします。

司会:はい。というところでですね。非常に深いテーマでお話がありましてですね、今回6回目ということで、これまで割とやっぱりテクノロジー寄りの方との対談が多かったんですけども、今回初めて小説家の先生との対談となった先生との対談となったということで、今まで会員さんの皆様も今までに無い刺激と学び気付きがあったと思います。で、まだまだ質問等あるかと思うんですけどそういうのはslackの方でチャンネルの中でまた議論していただければと思っています。そういうわけで90分でしたけども片山さん。中島さん。そして小平さん本当にありがとうございました。みなさん拍手で。