「動画で学ぶ時代」と言われるけれど
今は「テキストより動画で学ぶ時代だ」とよく言われます。短く要点を伝える解説動画や、言語化のうまい人によるノウハウ動画が人気です。たしかに見終えた直後は“わかった気”になれるし、最近は本ですら、それらをまとめたダイジェスト的な内容が売れています。
でも──原著を読んでいる人はどれくらいいるでしょうか。## 簡略化は、情報量を削る
難しい内容をわかりやすく伝えるには、どうしても情報を削らなければなりません。細かい条件や前提、例外や背景は省かれ、時には誤解を招く形に変えられてしまうこともあります。いわば、情報が“荒く量子化”されるのです。
「わかりやすさ」は入口としては大切ですが、深さとはトレードオフになることを忘れてはいけません。
「言語化がうまい人」は、変換がうまいだけ
言語化がうまいというのは、「本質を理解している」とイコールではありません。それは単に、複雑な内容を誰にでも伝わる形にうまく変換する能力が高いというだけです。
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発信者の思考
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それを表現する言語という器
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受け手が受け取れる情報量
この三者は、本来まったく一致しません。ときに天才は、既存の言葉では表現しきれない思考をしているため、言葉で伝えるのが下手なことさえあります。だからこそ彼らは新しい数式や概念を生み出すのです。
言語は便利な道具ですが、思考のすべてを運ぶには不自由でもあるのです。
原著には「思考の凹凸」が残っている
要約や解説といった二次資料は、全体像をつかむにはとても便利です。
けれど、それらはどうしても「大事なところだけを抜き出した地図」のような存在にとどまります。
一方で原著には、前提の揺れ、寄り道の議論、矛盾するように見える逡巡、脚注や参考文献──そうした細かい思考の軌跡がそのまま残っています。
これらは一見ノイズのように見えますが、**著者の思考の立体感を形づくる大切な“凹凸”**です。
地図ではなく、地形を歩く
地図だけを見ていると、山の急な斜面や谷の深さまではわかりません。
でも、実際にその土地を歩いてみると、息が切れる坂道や視界がひらける尾根道──平面の地図では感じられなかった起伏や奥行きが見えてきます。
原著を読むというのは、まさにこの「地形を歩く」ような体験です。時間も労力もかかりますが、そのぶん理解は平面的な知識ではなく、手触りのある立体的な知恵として自分の中に根づいていきます。
「難しい本は難しいまま」読む
原著を読むと、必ず「よくわからない部分」に出会います。でも、その「わからなさ」にこそ本質が潜んでいることが多いのです。
無理に噛み砕こうとせず、難しさを難しいまま抱えたまま読み進める。その時間こそが、要約や動画では得られない深い理解につながります。
結論:動画は入口、読書は到達
動画や“神・解説”は、理解の入口としてとても有効です。けれど、到達は原著と難解さの中にあります。
「わかった気」に満足せず、わからなさに留まる勇気を持つこと。それこそが、自分の思考の器を広げ、本質に近づく唯一の道です。
だから、流行の解説を見た後こそ──原著を開こう。